2016-05-16 第190回国会 衆議院 予算委員会 第20号
○大島(敦)委員 二〇一一年三月十一日の東日本大震災、ここの南三陸沖で大きな地震が起きると、貞観の地震があり、慶長年間、明治、昭和とあって、その前後には、首都直下型、あるいは東海、東南海、南海の地震が起きたと言われていて、私たちの国のリスクは高くなっております。そうすると、気象庁は地震予知が難しいと言うんですけれども、やはり地震予知について、私は国としてやるべきだと考えております。
○大島(敦)委員 二〇一一年三月十一日の東日本大震災、ここの南三陸沖で大きな地震が起きると、貞観の地震があり、慶長年間、明治、昭和とあって、その前後には、首都直下型、あるいは東海、東南海、南海の地震が起きたと言われていて、私たちの国のリスクは高くなっております。そうすると、気象庁は地震予知が難しいと言うんですけれども、やはり地震予知について、私は国としてやるべきだと考えております。
以下に、ざっとですけれども、我が国が災害集中期がいかにひどかったかということを、貞観年間、慶長年間、元禄年間、安政年間というので示してございます。それぞれ大地震や大風災があって、そういうものが集中した時期がございました。
貞観の地震、慶長年間の地震、そして明治、昭和の三陸沖の地震の前後十年間には必ずここの首都直下型の地震も起きていますから、今、物すごくリスクの高い時代に私たちは生きている。内閣府の方に、では、どのぐらい電力が、最悪のケースとまるのかと伺ったところ、大体全国の四一%、二千七百万軒ぐらいの、要は関西を中心とした電力が落ちるわけなんです。
貞観の三陸沖があって、慶長年間の三陸沖がありまして、そして、明治、昭和の三陸沖の前後十年、四回中四回起きているのが首都直下型なんです。そして、四回中三回、東海、東南海、南海の地震が起きています。
最近も関西の方で地震がありましたし、よく地元でお話しするときに、千百年前の貞観の地震があって、慶長年間の地震があって、そして、明治、昭和の三陸沖の地震の前後十年間には必ず関東の首都直下型の地震が起きたということを伝えさせていただくと、皆さん、若干身構えられます。
しかし、慶長年間云々とか元禄年間の創立、創立二百三十年なんていうところは、二年や三年、五年や六年わかりませんよね。ところがはっきりしない、わからないほど古い、そういうのれんこそ誇るべきものであるということも言えるわけであります。 お亡くなりになりましたけれども、百二十歳の何とか重千代さん、あの人の生まれ日についてもいろいろ週刊誌等に書いてございました。
彼いわく、私は生まれてすぐカレンダーを見たわけでもないし、どうもそれはつまびらかでない、だけれども、親御さんから教わった日を生まれ日だと私は信じているのでありまして、しかし、警察さんに聞かれたらきちんと答えなくてはならぬと思って、おれはそういうふうに聞いた、こう答えたと言うのでありますが、建国の記念日のごときも、例えば古い慶長年間あるいは元禄年間の初めのころに我がお店は創業され、三百何十年と言っているところにそのお
○野口分科員 少なくとも私が考えますのは、城ができます前に、慶長年間以前でありますけれども、それ以前に、定かではありません、私は慶長と言いましたが違うかもわかりませんが、とにかく三百数十年前に建てられる前にありました、これは彦根寺という寺があったのですけれども、それを移築をいたしましてそこに彦根の城を建てたのでございます。
○中山(正)委員 どうぞひとつ万全の御処置をおとりくださるように、この際自由民主党の一議員としてもお願いを申し上げたいと感じると同時に、たとえば駿河湾地震に対する予知とかそういうものはわりに関東関係は多いのでございますが、中部地区、たとえば名古屋中心地区、それから大阪を中心にした——大阪も慶長年間に大きな地震が起こっております。私の近くにもそのときの碑が残っております。
○安里委員 先ほど申しましたように、初めからわかっておってあそこのを設計したのじゃなくして、工事を進めておる間に発見された、もっともその一部はすでに前から明らかにされておった点でございまするが、いま三千年かあるいは二千五百年以上も前に住んでおったという住居あと、あるいはまた慶長年間以前かあるいはそのころからありました石畳、こういった貴重な文化財、遺跡を残すという基本方針というものが確立しまするならば
いろいろの経過がございますので、若干詳しく御説明いたしますと、土呂久鉱山は宮崎県高千穂町にあるわけでございますが、非常に古くから稼行された鉱山でございまして、記録によりますと、慶長年間から稼行された鉱山であったというふうにいわれております。
安政年間とか慶長年間からずっと続いてきた鉱山の公害がいまきている。その因果関係を証明しようと思ってもなかなか証明できないというと、たまたま大きな企業がそこでやっておったというようなことで、そこへ全部無過失賠償責任というものが過去にさかのぼってかぶっていく。
足尾銅山の問題も、もう田中正造先生の問題を出すまでもなく、慶長年間からでございますから、三百五十年間の長きにわたって銅の採掘をやっておるわけでございます。
土呂久鉱山は、ただいま先生おっしゃいましたように、約三百五十年前の慶長年間に発見をされまして、大友宗麟、肥後の細川、それから徳川幕府等によりまして稼行を連綿として続けられてきたわけでございます。明治、大正年間にも稼行されたわけでございますが、昭和に入ってから申し上げますと、昭和十年に中島鉱山という九州の地の会社でございますが、鉱区を取得をいたしました。
現在この土呂久の山で見てみましても これは慶長年間からやっておるということでございますし、非常に鉱山の歴史というのは古いわけでございます。この鉱業法もしくはその前の法律に基づきまして、はっきりと法制のもとで鉱業がやられた時代のほうがむしろ短かい状況でございます。
土呂久鉱山は慶長年間に発見されたといわれております。以来昭和三十七年に至るまで断続的にすずの精鉱や無水亜砒酸の生産が行なわれてきたものでありますが、昨年十一月、鉱山の所在いたします宮崎県高千穂町の岩戸小学校の斉藤教諭によりまして、同町土呂久地区におきましては過去の無水亜砒酸の採取等によって、地域住民の中に健康被害があるという意見が発表されたのであります。
○久良知政府委員 休廃止鉱山がどのくらいあるかというお尋ねでございますが、鉱山の歴史が非常に古いわけでございまして、先ほど報告の中にございました土呂久鉱山については、慶長年間から四百年近く稼行しておるというふうなことでございますので、全国に休廃止鉱山といえるものが正確に幾つあるかということはなかなかむずかしい問題ではございますが、私ども推定によりまして、大体五千から六千ぐらいの間あるのではあるまいかというふうに
——そこの鉱山は慶長年間からの鉱山でございます。慶長小判をつくった鉱山だそうでございます。かつては何千人かの労働者の方々がおられて非常に盛業だった鉱山のあとを現在掘っているわけなんですが、現実には八人しかいまいらっしゃいません。しかも倒産寸前であるというふうにいわれております。
それから、それ以外にもいろいろ資料があるんでありますけれども、たとえば琉球処分というのは慶長年間と、第二次には明治七年だ、一八七二年だ、こういうことになっておりますが、それからずっと引き続いて琉球処分というものが恒常的に行なわれてきたということは、おおうべくもない事実であります。
これは慶長年間と明治の年間で行なわれたというようなことで、沖繩の資本の蓄積はだいぶ不足しておる。この沖繩の資本の蓄積がどのくらい固定資本の形成の面で不足をしておるかということについて、これはどなたがおわかりになるか、総務長官がやっぱり御担当だと思うのでありますけれども、資本不足の内容についておわかりでしたら、ひとつ教えてもらいたいと思うのです。
○中島(源)委員 私は、渡良瀬川に関します公害問題について御質問をいたしたいと思うのですが、数ある公害の中で、渡良瀬の鉱毒問題、これを歴史的にさかのぼりますと、一八〇〇年代からの問題でございますし、そのもとをただせば慶長年間に足尾銅山が発見されまして、一六六二年から年間四十万キロの銅を産出した。その時点からの根の深い歴史を持っておりまして、言うなれば三百年公害といえるものでございます。
たばこについて申しますと、たとえば、慶長年間にはたばこの葉一枚が銀三匁というような貴重品時代から、だんだんこれが禁煙時代を迎えて、そうして懲罰的な少し重い負担をかけていくというところから、日本の場合には、徳川の吉宗時代から財政物資として取り上げてくるようになったわけであります。
さらに、いろいろとこまかい話がございますが、切にお願いしたいことは、文楽が大阪市、国立という名から見ればはるかにスケールの小さいものですが、その財政難の中にあって今日蘇生し、アメリカでも好評を博して、これからとにかくその保存の、未来はあまり憂いがなくなっているような形になってきておりますけれども、この歌舞伎という、何といっても歌舞伎が主体になるのは、これはやむを得ないことで、慶長年間の郢曲だとか、小唄